ライブレポート

2013/4/4 更新

横濱再びの夜、その物語にはいっそうのロマンティシズムが香り、永遠という一瞬が心に刻まれる

以前、「横濱の夜よ、再び」と書いた。その再びの夜は、桜前線が横濱を出し抜けに訪れた後の、少し肌寒い夜だった。会場は、神奈川芸術劇場。たいそう広い1階ロビーをぐるりと巡るようにエスカレーターが続いて、吹き抜けになった5階まで昇る。ずいぶんと贅沢な空間の使い方はホールの中も同様で、その贅沢の心地良さは後ほどたっぷり実感することになった。

再びのステージはやはり、記憶という糸で1回目のステージにつながっている。そして、その記憶が、2回目のステージにさらなる彩りを添えるのだ。ステージが始まってまず最初に思い当たったのは、“あの夏の赤レンガ倉庫ではある種のサスペンスの中に自分の気持ちは置かれていたのだな”ということである。それはつまり、“こんな調子で始まって、Chageはいつ、どんなふうにしゃべり始めるのだろう?”というワクワクドキドキを抱えながらステージの行方を見守っていたということだが、その種明かしはすでになされていたから、再びのステージではすんなりと、ということは1回目よりもさらにずっぽりと、ステージ上で紡ぎ出されていくあまやかな記憶の物語の中へと入り込んでいくことになる。しかも、この日の会場では、Chageによるプロローグの言葉がアナウンスで告げられた後、ゆっくりと緞帳が上がって物語に入っていく。それはまさに“ページをめくるように”という形容が似つかわしく、緞帳という仕切りがこちら側の意識のフェイズをしっかり切り替えてくれるのだ。

そして、ステージが始まると、その空間の豊かさを僕たちは思い知ることになる。赤レンガ倉庫では、Chageをはじめとするバンドのメンバーと朗読の女性が息を重ね合わせるように並んでいたけれど、この日はバンドのメンバー4人が程良い間合いで陣取った舞台の下手上方に朗読の女性が配され、それはあたかも音楽という縦糸と朗読という横糸による物語の成り立ちを視覚化したようでもあり、さらには十分な奥行きを持った舞台の広さと天井まで3フロアか4フロア分はあろうかという高さが記憶と夢が往来する物語に十分過ぎるほどのふくらみを与えてくれた。おかげで、再びのステージはよりシアトリカルな印象をたたえ、例えば60年代ブリティッシュ・ロック風味の「&C」などは、そのテのファンならキンクスやザ・フーのロック・ミュージカルを連想したりしたかもしれない。

もちろん、空間の豊かさは音の響きもふくらませる。個人的には、Chageのウクレレに吉川忠英のアコースティック・ギターと渡辺等のチェロが絡む“ストリングス”サウンドがあらためて新鮮に感じられた。南国ののどかな気分を代表しているはずのウクレレの音色が、そこでは切ない祈りの感情を繊細に表現してみせるのだ。

ところで、再びのステージでは1回目のサスペンスからは解放されていたものの、逆に“再び”だからこそ先回りの感情にとらわれていたことは否定できない。この物語のために書き下ろされた新曲「永い一日」が再びのステージではどんなふうに聴こえてくるのだろう?という思いだ。間違いなくこのステージのクライマックスと言えるこの曲の演奏はこのステージ全体の印象を大きく決定づけるものだろうが、僕自身はこの日のステージで♪わかりあい/与えあい/許しあい/ただ二人は二人になれたんだろう♪という最後のフレーズがすっぽりと腑に落ちた感じがしたのだった。だからこそなんだろうと思うのだが、その後に続く朗読で女性がつぶやくにように語る「だけど、きっと、あっという間のことなのね」という言葉が強く心に残った。

永遠とは時が止まるということだから、永遠の時を過ごした後では、すべてはあっという間の出来事なのだ。記憶や夢と絡まり合いながら、あるいは世の中の事件や事故に翻弄されながらしかし、ただの「貴方」と「私」として向き合えたとき、人は永遠の時を生きることになるということか。

松井五郎を迎えての和やかなアンコールは、この夏に始まる復活のドラマのささやかなイントロダクションでもあった。

一度ステージを去ったバンドのメンバーは拍手に応えて再び登場し、最後は舞台中央に腰掛けたChageの後ろを囲むように3人が立ち、記念撮影よろしくポーズを決めたまま緞帳が下りた。こうしてフェイズがまた切り替わり、去年の夏に始まった長い物語もまた僕たちの記憶の引出しにしまわれることになる。が、Chage言うところの「本社勤務」の傍ら、こんなふうにソロの物語が紡がれ続けていくことも願わずにはいられない、なんともロマンティックなステージだった。

音楽ライター 兼田 達矢


2012/9/10 更新

僕らの意識はリアルとアンリアルの間の壁をスルリとすり抜けて
フィクションの世界に入り込んでいった

昔、「……と、日記には書いておこう」というフレーズが流行ったことがある。そのフレーズを使いたいがために日記を書き始めたのだけれど、そのフレーズを使うまで続かなかったという三日坊主が日本中に出現したりもした。

日記を続けることが難しいのは、ひとつには書き留めるほどのことが毎日起こるわけではないという現実がある。ゴルゴ13だってジェームス・ボンドだって、あるいは橋下徹大阪市長だって、1年365日、毎日シリアスでスリリングな、もしくはセクシーでエキサイティングな時間を過ごしているはずもなく、だから日記帳を開いてはみたものの、“今日はとくに書くことはないな”という日がきっとあるだろう。そんなとき、ゴルゴ13やジェームス・ボンドなら無表情に日記帳を閉じるのだろうが、彼らほどにクールな生き方をしていない人のなかには、自分の日記帳のなかの今日という日の空白を寂しく感じる人がいるだろう。そして、そういう人はその寂しさを思い出したくないから、その翌日もその翌々日も日記帳を開くことを億劫に感じるだろう。日記を続けることの困難は、自分の人生を冷静に見つめることの困難に通じている。

もっとも、毎日のように“事件”めいた出来事に遭遇する人であっても日記を続けることはなかなかに難しい。それはおそらく、日記には宛先というものがないからではないか。厳密に言えば、自分という宛先に差し向けられていると言えなくもないけれど、それにしても日記に書かれたことは密やかにその場に留まっている。愛しい人への思いを熱烈に書き綴った一文でさえ、日記である限りにおいて、どこにも届けられることはないし、だからそこに込められた思いがどこかに通じることもない。つまり、日記を続けることの困難は、通じることのない思いを心のうちに抱え続けることの身悶えするような切なさに似ていると思う。

そんなふうに考えていくと、Chageの歌は、日記に書かれた文章とは対極にあると言えるかもしれない。なぜなら、たとえ独白のようにつぶやかれたものであっても、Chageが歌う歌に宛先のない歌はないからだ。それどころか、彼が歌うと、歌はその宛先に向けて真っすぐに飛んでいって、その宛先のいちばん深いところに入り込む。そして、その歌を受け取った人は、つまりいちばん深いところに入り込まれてしまった人は、だからこそChageと通じ合うことになる。

橫濱茶会の野心は、密やかに留まる日記の言葉と真っすぐに飛んでいく歌の言葉、そんな2種類の言葉を縦糸と橫糸にして新しい物語を紡ぎ出そうというのである。野心と言うにはロマンティックに過ぎるにしても、Chage自身のやんちゃで真摯な気質の故に生まれたものであって、果敢な試みであることは紛れもなく、それ故に初日に立ち会った聴衆たちは幾分かの緊張も感じながらその物語の行方を見守ることになった。

それはちょっと不思議な体験だ。

Chageの歌と日記を朗読する女性の声が交差するステージ上は一種の劇空間で、つまりはフィクションの世界になっている。でも、Chageの歌声はあくまでもリアルで、確かな温もりを感じさせるから、僕らはいつものように彼の歌と通じ合う。その結果、僕らの意識はリアルとアンリアルの間の壁をスルリとすり抜けてフィクションの世界に入り込み、日記に綴られた明治時代からの100年の時の流れを、同時代的な共感とともにたどることになるのだ。大正ロマンの世界に心をときめかせ、関東大震災や戦争の時代にも心塞ぐことなく、戦後の復興のなかで新しい希望を抱き、繁栄の時代に自分なりの安らぎを見出す。だから、このステージで生み出される新しい物語は、時の流れという縦糸と暮らしを積み重ねていくことの共感という橫糸で紡がれるものでもある。

日記の言葉は密やかに留まる、と先に書いた。が、その言葉がステージ上で歌の言葉と何度か行き交った果てに、朗読の女性が「いつかここから旅でもしてみたい」という言葉を口にするとき、日記の言葉もその思いが届けられるべき宛先に飛んでいくような気がする。新しく紡がれた物語は、時間も場所も越えて届けられるはずの、そして受け取った人の心の中でゆっくりと味わいを深めていく言葉たちの連なりだ。つまり、密やかな日記の言葉は僕の言葉になり、橫濱の物語はあなたの街の物語になる。

アンコールに登場したChageの晴れやかな表情を見ながら、アンリアルな物語の世界からリアルな赤レンガ倉庫の客席に帰還している自分に気づいた。2時間ほど、僕はおそらく旅をしていたのだろう。その旅先で、また新しいChageの一面を見たような気がする。いや、確かに見たのだけれど、でもそれは夢の中の出来事のような感触の記憶で、だからその感触のままにしておきたいのだ。

確かな出来事の曖昧な感触。言葉にするのは難しい。だから、「橫濱の夜よ、もう一度」とだけ、日記には書いておこう。

音楽ライター 兼田 達矢

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